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2005年1月 3日
奥の細道 矢立初の碑
さて、七福神めぐりのついでと言ってはなんだが、千住大橋あたりまで足を伸ばしてみた。千住大橋の北千住よりのたもとには、江戸時代の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)の「奥の細道」矢立初の碑がある。
資料によると、芭蕉は元禄二年(1689年)、門弟の曾良(そら)とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、3月27日に千住大橋あたりで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ったとある。
この時に詠んだのが、
行春や鳥啼魚の目は泪
ゆくはるや とりなき、うおの めはなみだ
の有名な一句。
意味は、過ぎゆく春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを惜しんでいるという意味らしい。
この後奥羽・北陸そして大垣へと約600里、およそ半年の旅を続け、道中に詠んだ俳句をもとに「奥の細道」を書いたという。
矢立初の碑の近くには、芭蕉の行程図も設置されていた。日付を追っていくとかなり歩くのが速いことに驚かされる。3月27日に千住にいた芭蕉は4月1日には日光に着いている。年末鬼怒川温泉へ旅行に行ってきたが、北千住から鬼怒川まで特急きぬで2時間はかかったぞ。人間そんなに速く歩けるのか?とにかくすごい。
前にとあるテレビ番組で芭蕉・忍者説というのを見たことがある。それによると当時東北で力を持っていた仙台の伊達藩の動向を江戸幕府に知らせる密命を幕府から芭蕉か門弟の曾良もしくは両者が受けていたのではないか、つまり俳句を詠みながら旅をするというのはそのカムフラージュだったという説が芭蕉の生い立ちや旅の足跡とともに紹介されていた。
なんでも芭蕉は1644年、忍者で有名な伊賀の生まれ。奥の細道の旅へ出発した芭蕉は46歳。忍者として特別な訓練を受けていないと40代後半の人間が、一日50Km以上を続けて歩くのは困難だと指摘する学者もいたとか。
でも管理人的には、実際のところそうだったらおもしろいのにな、という推測の域をでないような気もする。
夢がない?はい、ありません(笑)。あれはUFOだった、みたいなもんでしょ、そういう話。
松尾芭蕉を検索してみると
芭蕉と伊賀 -芭蕉生誕360年
というサイトが見つかったので、興味のある方は参照にするといいだろう。
矢立初の碑の近くには千住大橋がある。現在の武骨と言っていいようなデザインの鉄橋は昭和2年(1927年)に完成したものらしい。長さ92.5mの総アーチ型という当時としては最新の橋だったそうな。
投稿者 kaoru|2005年1月 3日 18:26